校歌にまつわる逸話(1)

1.『校歌の誕生』国語科教諭 坂本勝人先生

 戦後の学制改革で、本校も昭和23年3月、大分県立第一高等学校と改称、新制高校としての第一歩を踏み出したのであるが、新しい時代の黎明を迎えたわれわれの行手を照らす指針として、校歌を制定しようとの話が出たのは、終戦後の精神的空白からようやく脱して、新しい人間像探求の萌芽が見えはじめた昭和25年頃であった。
 生徒・卒業生は勿論のこと、広く一般からも募集することにし、新聞にもこの企てを大きく発表した。こうして集まった作品は50編以上に達した。数多い力作の中から先ず20編を選んだ。そのあと2回3回と会を重ねて5篇を選び、更に3篇に絞った。その3篇は、小笠原一夫君(当時3年生)・秋吉邦男君(同)・首藤正登君(当時2年生)の策で、この中から小笠原一夫君の作品を第一席に推した。三君とも揃って在学中であったので、学校の特色をうたい、また、その希望と信条を述べている点ではなにひとつ手落ちはなかった。しかし、どの作品も惜しいことには、歌詞としての技巧と新鮮味に欠けているうらみがあった。この歌詞を中心にして筆を加えてみようということに委員の意見が一致した。そこでまず、委員のうちの一人が作り、それをこの次の会で検討することにして、人選の結果、牧文一郎先生にお願いすることになった。牧先生は原作者のうたわんとするところを十分に生かし、しかも新鮮で永久的なものをということで想を練り、改作した。
 改作について牧先生は次のように語った。「先ず原作の6行を3行に改めた。そして各節とも各行の終わりを同じ韻にした。また、ことばの上では原作の一高をなくした。なぜなら、一高はやがて名称がかわるかもしれないと考えたからである。次に各節の一行はほとんど原作のものに近いが、二行以下は相当思い切って改めた。特に二節の「由布の川岸」と三節の「大空のわが羽ばたき」はどうかと思ったが、他の委員が賛成してくれたのでそれに従った」と。
 このような経過をたどり、最後の集まりで「見はるかすくに碩田」という歌詞については豊後風土記を調べたり、「垣めぐりたつ」よりも「めぐり生い立つ」の方が具体性があるなどいろいろの意見が出て更に歌詞の一部を改め、綿密な検討を加えて出来上がったのが現在の歌詞である。
 次に作曲は本校の出身である中山悌一氏(東京芸術大学教授・世界的バリトン歌手)に依頼しようということになり、岡野先生が荷揚町の中山病院長を通じお願いしたところ快諾を得た。それから数ヶ月後にとどいた歌曲を、藤沼先生がピアノを弾き、当時3年生であった石井昭彦君(東京芸術大学卒・テナー歌手)と平尾頌子さん(東京芸術大学卒・ソプラノ歌手)が歌ってくれたのも印象的であった。そして26年秋には、校歌制定記念大音楽大会が教育会館で盛大に催された。


昭和26年(1951年)に校歌制定記念大音楽大会が行われた大分県教育会館の絵葉書(現在の大分市役所の敷地)

 このようにして生徒、卒業生、教師が一体となって完成したのがわれわれの校歌である。ここ上野に学ぶ若人達は毎年集まり散じても、この校歌はとこしえに聖地の森にこだますることだろう。
(碩陵新聞 昭和35年7月4日発行より)



2.『わが校歌への想い』 校歌作詞者 小笠原一夫さん(高校3期)

 それは昭和25年、高校三年の新学期が始まって間もないある日のホームルールの時間だったでしょうか、前年募集した校歌に入選作がなかったとかで再募集するので、今回はクラス全員が作詞して持ってくるよう担任の志手先生から申し渡されたことが私の動機ともいえますが、当時は経済的に進学が覚つかなかったため勉強よりもラジオ歌謡の方に興味のあった頃ですから、先生の再度の催促があるまでは作詞するなど全く念頭になかったものです。
 それでもいよいよ締切を目前にしての1日、2日の間、一晩は夜を徹したような気もしますが、もとより文才に乏しい頭のこと故簡単に出来よう筈もありませんでした。
 何とか1小節目の「みはるかす国・・・」がまとまったのは、上野の小高い山から見下ろす大分平野や市内、別府湾と続く広い情景がもとになったもので一番気に入っている部分ですが、今考えてもここには私の一時代の苦しい思い出がオーバーラップしてくるのです。戦後の引揚者であった私が別府から大分に居を移したものの、生活の苦しさは相変らずで、時には弁当を持って行けない日もあり、そんな時私は気を紛らわすため昼休み時間に皆と離れて運動場から連なる松林や上野の山裾を歩きながら、時間の経つのを待っていたことがあります。こんな時私の目に映っていたのが「みはるかす国碩田」であったのです。
 このあと1番の歌詞を上野丘を中心とした情景を、2番を3年間の学窓生活をというような気持で書いたつもりですが、何とか詩の形体にまとまったことすら今もって不思議な気がしている位です。このことは私の歌詞が第1席に推されたものの新鮮で永久的なものにするため思い切って補作したとの坂本先生の後日談(同窓会誌上野丘1号)を見ても、如何に技巧に欠けていたかを思い知らされ、誠に面映い気がしています。
 その年の夏、高校野球の大分県予選が春日浦の大分球場で行なわれた日の朝、開会式に出場する合唱団の一員(員数合わせ?)として球場玄関に入ろうとした時、二年当時のクラスメートであった利光豊子さんから私の作詞が選定委員会で二次予選を通過していることを知らされ、まさかと一笑に付したものでしたが、それから2ケ月後の9月のある朝、全校朝礼時に名前が呼ばれ秦校長先生から本当にまさかの賞状と金一封(千円也)を頂戴したときのいつまでも納まらなかった胸の高鳴り、そのあと合唱団が始めて披露した校歌のメロディもうわの空で聞いていたこと、これ丈は遠ざかる記憶の中で今でも脳裏に鮮明に焼き付いている残像の1コマです。
 作曲されたのは大先輩に当る中山悌一先生ですが、今口ずさみますとあの上野の山で過した毎日が昨日のように思い出されます。当時はまだ大分中学の校歌「大空高く月澄みて」の男性的蛮カラ調が風靡していましたので、新しい校歌がどちらかといえば優しいのではないかという声を背中に聞くにつけ複雑な思いをしていたことも事実です。
 しかしあれから35年、校歌が平和な世の中で歌い継がれていることに、いいようのない喜ぴを感じていると同時に、同窓会名簿の巻頭に私の名前が載っていることを光栄に思っている次第です。
 古ぼけた私のノートの一頁に志手先生が書き残してくれた言葉「世の中の体制がどう変ろうとも君の作った校歌は学校が続く限り、永遠に歌われることを誇りに思うように」を、今一度思い出して新たな感慨に浸っております。
「わが学舎に誉れあれ!!」と祈念しつつ。

(同窓会誌『上野丘』第8号より)

(※)小笠原一夫さんの歌詞原作



昭和36年(1961年)の大火の前の大分上野丘高校全景と校歌


みはるかすくにの風景~上野丘から大分市街を望む(昭和40年 栗林伸幸氏【高20期】撮影、佐藤誠治氏構成)

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