大分県立大分上野丘高等学校同窓会ホームページ<公開版>

一世紀の青春「大中・上野丘高物語」より

(2013.02.21 掲載)

草創編

 

泉都別府の礎築く

 

 大分中の第一回卒業生は、確かに三人だった。しかし、昭和に入ったから編さんされた同窓会名簿によるといずれも一回生は二十人となっている。おそらく最終学年近くまで在籍した級友を、もちまえのおおようさで"準卒業者"と見なして加えたのだろう。こうした"準卒業者"にも大物が多かった。一回生では加藤本四郎(元奉天総領事)武田綾太郎(元別府町長)平山茂八郎(元別府市長)らの名が挙げられる。

 大中出身で初の大臣になったのは後藤文夫(明34卒)。その後藤に「短命のため、惜しくも大臣初名乗りを譲った」と言われているのが、加藤本四郎。後輩の間になかば伝説的な秀才として喧伝された人物だ。

 加藤は明治三年四月、玖珠郡の森藩の少参事・加藤茂弘の四男として生まれた。幼少のころから神童の誉れ高く、大中を三年でやめて熊本の五高へ転入。五高第一期の首席で卒業した。同年の外交官試験も第二位でゆうゆう合格したのだから並みの秀才じゃなかった。

 同年十月の京城公使館の外交官補を皮切りに、加藤は激動する中国大陸を中心に、外交官として卓抜した手腕を発揮した。まずロンドン駐在の領事館補を経て蘇州の領事へ。翌年の日露戦争では交戦国や中立国の間にたって活躍。明治三十九年からの天津総領事時代は、袁世凱を向こうに回し、きびきびと事を運んだことも。吉田茂・元首相の手記によれば「加藤は部下に用事を言いつけるときにも、自分から事務室に出向くタイプ。館員の部屋を一杯機嫌で襲っては、車座になり、古今の史談や政治論を飽くことなくしゃべり続ける熱血漢だった」という。

 しかし、酒豪が災いしてか、間もなく難病(舌ガン)を患う。明治四十一年二月、三十八歳の若さで、帰らぬ人となった。その死は各方面から悔やまれ、故浜口雄幸首相も「大学の同期に加藤という傑物がおり、皆から嘱望されていた。不幸にも短命に終わったのは惜しんでも余りある」と語ったという。

 外交の加藤に対し、郷土の政治家として俊腕をふるったのが武田綾太郎と平山茂八郎。ともに泉都別府の礎をなした先駆者だ。

 武田は、明治の別府にさん然たる力を持っていた戸長・武田穐三の一人息子。政治好みの血を受け継ぎ、大正七年から三年間別府町長に就任、後に憲政会から県議となった。長女テイ(79)の話では「冗談一ついわず家族にも厳しい明治男の典型。清廉潔白すぎて、かえってけむたがられた」とか、その反面、周囲に困った家があれば、必ずこっそり金を送る篤志家でもあった。

 長女テイは、知る人ぞ知る女性県議の第一号。その夫、佐藤淳(明治42卒)もやり手県議で知られ、やはり血は争えない。

 一方の平山は、明治四年生まれで、臼杵の代表店舗だった『富士屋』の跡継ぎ息子。ところが商人より政治の分野に才があったらしく、町議、群議を経て大正四年に県議(政友会)初当選。大正八年から昭和二年まで、第十七、十八県議会議員として名をあげた。

 そのころ政界は、憲政会と政友会が真っ二つに分裂し「知事が代われば巡査まで代わる」とさえ言われた激烈な政争期。その中で八年間も混迷する県議会を乗り切ったのは、政党政派を超えた幅広い人格者の証左といえよう。「憲政会の人とも、花見の席でかち合えば一緒に飲んで騒いでいましたね」と三男の三男(67)は回想している。

 延べ三期、七年二ヶ月の別府市長在職中は、別府市誌の編さんや温泉観光の開発に力を尽くした。元アラスカパルプ社長・笹山忠夫(大3卒)の親族に当たり、若いころの笹山を引き立てたのも彼だ。

 

一世紀の青春「大中・上野丘高物語」より

1979年3月26日 著者 中川 茂