大分県立大分上野丘高等学校同窓会ホームページ<公開版>

一世紀の青春「大中・上野丘高物語」より

(2013.01.17 掲載)

草創編

 

スパルタ教育

 

大分中学校は明治二十七年六月、荷揚町から今の上野丘に移転した。荷揚町校舎を経験した生徒、今ではもう百歳前後。ほとんど帰らぬ人となった今日では直接思い出を聞くすべもない。ただ残された資料や手記をめくると、貧弱な施設に負けず、しゃにむに学んだ苦労がにじんでいる。質実剛健、独立自尊の大中魂はこの荷揚町時代の模索の中から芽ばえていった。

 そのころの学年は二学期制。九月一日に始まり、翌年二月十五日までが前期。後期は二月二十三日から七月二十日まで。教職員は校長以下教諭が十人、書記二人というこぢんまりとした布陣だった。一期生は、開校三ヶ月後、新たに入学した三十人を加えて計百三人。初の中学生とあって年齢も学力にも格差がひどく、開校二年目の秋、試験で組を作り直したという。

第一級には吉良辰次郎(元検事正)安部午生(元勧業銀行理事)井上長太郎(元慶応大教授)加藤本四郎(元奉天総領事)ら多士済々の顔ぶれが並んでいる。授業料は当初無料だったが、四年目から二十銭を納めることになった。

 授業料は算術、英語、漢書、修身、歴史、地理、作文など。そのうちバレーの万国史、ミッチェルの世界地理、チャールズ・スミスの代数学、スチュアートの物理などは、原書を使用したというから、恐ろしく難解だった。

授業開始は毎日午前七時。毎学期の定期試業(試験のこと)で、四十点未満の科目があれば無条件に退学。五十点未満の科目があれば落第というスパルタ式だった。

 このように厳しい授業で鍛えられながらも、そこは未知への希望と好奇心にふくらむ青年たち。学校生活は青春の最も楽しい日々であった。

 一期生の綾井忠彦(元芝浦製鉄所重役)の手記によれば、竹田や玖珠方面の出身者は、蒸気船にも大感激。入試の日だというのに、朝の三時ごろからカンタン港へ見物にいき「こらぁすごい」と大騒ぎ。以来彼らは、蒸気船の汽笛が聞こえるごとに「おい、きょうは見に行かんのか」と冷やかされという。

 開校間もない荷揚校舎には、オルガン(当時は風琴と言った)さえなかった。式典に日には器用な先生が自宅から奥さんの琴を持って来て『君が代』や『春の弥生に曙に』などを伴奏するありさま。後に「大空高く月澄みて・・・」の歌い出しで一世を風びした大中校歌も、まだ作曲されていなかった。

 校歌と共に幅をきかせた"青の三筋に七つボタン"の制服も、制定されたのは明治三十二年のこと。荷揚町時代は和服(羽織、ハカマ)が主流。その代わり飲酒や喫煙は禁止されておらず『ヒーロー』『サンライズ』『ピンヘット』などのたばこが出回り、中には『火の用心』と書いたたばこ入れを腰に下げた豪傑もいた。

 野球、サッカーなど"ハイカラ"なスポーツもなく、運動と言えば『兵式体操』ぐらい。それでも「たまには高崎山でウサギ狩りを楽しみ、月に一度ぐらいは皆"ふんぱつ"して、堀川の破れまんじゅうを食べていた」と今村孝次(明治26卒・元佐伯、竹田中校長)。

 "宿敵"師範との対抗意識も、荷揚町校舎の産物だ。

なにしろ異質の学校が同じ敷地内に同居している。年とともにいがみ合いが激しくなり「視線が合うたび"何お、この地方税が"とケンカ。校舎のへィをたたいては、授業のじゃまをしていた」と山口竜吉(明29卒・元耶馬溪鉄道重役)。この対抗意識は、両校がそれぞれ移転して離れたのちも続き、数々のエピソードを残している。「荷揚町校舎の名物はカッケだった」と述べているのは佐藤順一(明26卒・初代富士山頂測候所長)。栄養不足と学期試験の猛勉強から、毎年五、六月になると一時に二十人も患者が出た。当時は一般に埋め立て湿地の関係と言われ、これが上野丘移転の一つの理由になった。

 

一世紀の青春「大中・上野丘高物語」より

1979年3月26日

著書 中川 茂