大分県立大分上野丘高等学校同窓会ホームページ<公開版>

一世紀の青春「大分・上野丘高物語」より

(2013.01.15 掲載)

草創編

 

青い目の日本人

 

 ウェンライトは、二代目鎌田校長が「世界に雄飛する人材を」と、明治二十六年はるばる呼び寄せた青年医師。当時地方の町に外人教師がくることは、極めて異例のことだった。

異国の青年教師夫妻を迎え、大分中学はもちろん、大分の町中は大騒ぎだった。夫妻が町を歩くと、子供たちがぞろぞろついて行く。大人たちも初めて見る"異人さん"に、容赦ない好奇の目を注いだ。教師とはいえまだ若い二人。むろん宣教師にもなっていない。風俗、習慣の違いやキリスト教への偏見も手伝い、異国の夜、二人涙ながら神に祈ることもあった。

 この若き外人教師は、鎌田校長の期待にたがわず、非常に有能な人格者だった。大分中のあと関西学院教授、青山学院教授を経て日本基督教興文協会を創設。東京米人協会会長、日本アジア協会会長として、英語教育と日米親善に尽くし、"民間外交の父"と称された。昭和五年、ウェンライトは多年の功績をたたえられ、勳四等旭日小綬章を受けた。受賞後の祝賀会で祝辞を述べたのは、彼を日本に招いた元校長の鎌田枢密顧問官。大分中同窓会を代表して立ったのは"東洋のアンデルセン"こと久留島武彦(明22中退)だった。立派に成長して名を遂げた友人や教え子たちに囲まれ、ウェンライトは熱い感激にひたったことだろう。

 大分中時代のウェンライトは、週二十一時間の英語を担当。妻マルガレットも、オルガンの腕を見込まれ、隣接の師範学校で音楽を教えた。もともとおおらかで若い二人。進んで大分の若者に打ち解けていく。堅苦しい師弟の関係はなく、生徒たちとも友達づき合い。自宅はいつも生徒たちに開放しており、毎晩英語の学習会を開催。カンテラと石油ランプの下で辞書をめくった。日曜日も休むことなく、朝の日曜学校から夜の集会まで働きずくめ。マルガレット夫人も賛美歌や聖書を教えたほか、近所の女性たちには編み物、洋裁、料理など、何でも親身になって手ほどきした。

 夫妻の居間には、日増しに生徒たちが増えていく。純粋で議論好きの若者たち。寒い夜には火ばちを囲み、学問のこと、神のこと、人類のことを、かじかむ手をさすりながら、時のたつのも忘れて語り明かした。やがてこの集いの中から、久留島や、日本メジスト協会の総監督となる釘宮辰生(明治22卒)柳原直人(明治23卒)らが育っていったのだ。なかでも久留島は、ウェンライト夫妻の自宅に住み込むほどの心酔ぶり。ウェンライトとともに関西学院へ転校し、彼の勧めでついに童話事業に一生をささげた偉業は、説明するまでもない。

 ウェンライトの大分滞在は、明治二十二年までのわずか二年足らず。だが、異国で第一歩を印した大分の地。素朴で夢多い青年たちとの交流は、生涯忘れられない体験だった。

 「今の自分があるのは、大分のあの青年たちのおかげだ。いちばん最初に日本国中で最も風俗人情のすぐれた大分で過ごせて、本当に幸せだった」・・・・・。ウェンライトは後日こう述懐している。

 徒然草を読み"遠来"と号して俳句もつくったウェンライト。親日家というより"青い目の日本人"だった。情熱を込め、大きいジェスチャーで話す日本語には、終生大分なまりが抜けなかったという。

 

一世紀の青春「大分・上野丘高物語」より

1979年3月26日

著者 中川 茂