大分県立大分上野丘高等学校同窓会ホームページ<公開版>

一世紀の青春「大中・上野丘高物語」より

(2013.01.10 掲載)

草創編

 

初代校長

 

 大分中学は、創立から七年間に五人の校長を迎えている。普通、初代校長が長期間にわたって開学の精神を築きあげることが多いなかで、同校校長のあわただしい入れ代わりは異例といえよう。しかし、短い期間にもかかわらず、これら建学の父たちのまいた種は、見る間に大樹と育ち、無数の豊かな実を結んだのだ。

 なかでも村上田長初代校長、鎌田栄吉二代目校長、そして初の外人教師S・H・ウェンライトの薫陶は計りしれない。

 明治初期。板垣退助の国会開設運動で火ぶたを切った自由民権運動は、たちまち全国へ波及し、政治熱を高めた。県下でも言論機関の異常な発達となって、いちはやく根を張って行く。明治九年十一月、中津町の自由民権論者を結集して創立された『田舎新聞』がその先駆者あり、同新聞の社長こそ、大中初代校長・村上にほかならない。

 村上は、天保十年二月十一日(一八三八年)筑前秋月藩の典医杉全健甫の三男として出生、二十五の時、中津奥平藩医村上春海の養子となった。杵築の元田伯村らに師事して陽明学を学び、明治元年の会津征伐出兵の際は、中津藩の医官として従軍している。一方では耶馬溪の羅漢寺『水雲舎』という私塾を開き東京美術学校校長・村上直次郎ら多数の人材を世に送り出すなど、一かどの教育者であった。

 『田舎新聞』を創設した村上は、編集長増田栄太郎らとともに、県や官庁に対する痛烈な批判を展開、精力的に自由民権の思想を鼓舞し続けた。結局経営困難から明治十四年に廃刊となった同新聞だが、県下の言論の発達に果たした役割は大きい。「民間の適切な利害を論じ、かたわら勧懲(勧善懲悪)の意を含み、大小内外にかかわらずいやしくも世の幸福となるべきものは、記者の力あらん限り書き綴り・・・」。発行の辞に高らかにうたいあげた自由民権の思想は、村上の六十八年の生涯を脈々と貫いている。

 村上が大中の校長に任じられたのは、開学を一ヶ月後に控えた明治十八年五月のこと。同年九月には隣接の大分県尋常師範学校校長も兼任。翌十九年四月には玖珠郡長として転任している。したがって生徒たちとの直接の触れあい実質十ヶ月と短い。

 しかし、開校したばかりの萌芽期に、村上は模索しながらも、全精神を込めて近代教育のゆるぎない礎を築いた。村上が自からかもしだすリベラリズムの炎は、感受性と希望の塊のような青年たちに、深い感銘を植え付けたに違いない。第一期生の桜井久我治(元北海水力電気専務取締)や綾井忠彦(元芝浦製作所重役)らは「人格極めて崇高なり」「福徳円満の老学者でまことにいい方でした」と村上の人となりを伝えている。

 玖珠郡長となった村上は、地方開発の目標を「交通網の整備」と定め、しゃにむに道路建設を推進する。大分-森 森-小国 森-中津などの各幹線がその遺産だ。

とりわけ森から中津に至る「耶馬溪道路」は、難産に次ぐ難産だったという。計画と同時に地元町村は猛反対、県議会までもが予算を否決した。村上は地元民を説き伏せて、連日ぞうりがけで工事の陣頭指揮、自ら金策に奔走せねばならなかった。そして晴れの完工を目前に「県議会の議決を無視した」と、郡長職を解かれてしまった。

執念の道路開発も"種をまく人"の辛苦を味わうだけに終わったが、先見の明にたけた政治資質は、末永く賞賛されている。

 漢学者、教育者、医者、政治家として多彩な生涯をとじた村上。そのバイタリィティは村上記念病院(中津)を創設した三男和三(明30卒)西鉄社長として九州の実業界に君臨した四男拓児(明31卒)へと受け継がれて行った。

 

一世紀の青春「大中・上野丘高物語」

1979年3月26日

著書 中川茂