大分県立大分上野丘高等学校同窓会ホームページ<公開版>

一世紀の青春「大中・上野丘高物語」より

(2013.01.11 掲載)

 草創編

 

福沢一番弟子 

 

「福沢諭吉先生の一番弟子じゃそうな」「なんでも給料は前校長の二倍以上、百円ももらうちゅじゃねえか」。明治十九年九月、夏季休暇から学校へ帰った生徒たちは、次期校長のうわさでもちきりだった。

 臼杵出身の安部午生(明22卒・元勧業銀行理事)も、はやる心を抑えきれない一人。最初に度肝を抜かれたのは彼だった。鎌田が大分に到着の当日、まだ登校しない前、旅館を訪問した安部は「私は上京して上の学校に行くため退学願を出したのですが、許してくれません」と相談をもちかけた。すると鎌田校長は「進学のため退学するのに願書はいらない。私が許す。すぐ上京しなさい」と即座に答えたのだ。

 その夜、このニュースは、たちまち寄宿舎中に流され「こりゃ並の偉さじゃないぞ」と一大センセーションを巻きおこした。

 当年二十八歳。もちろん十人いた他のどの先生よりも若い。貴公子を思わせる紅顔の美青年。卓越した知識と独立自尊の精神。鎌田の着任は、純真な生徒たちの心を、まるで磁石のように引き寄せ、魅了するのに十分だったろう。

 さてこの若き校長。最初の一ヶ月ぐらいはただ毎日教室をみて回るだけ。生徒の関心もいやおうなく高まるというものだ。そして突然全校生徒を一堂に集め「あすから習字、英語、書き取りに修身は自分で受け持つ」と宣言した。

 とくに修身では、三クラスを集めた大演説で、生徒には耳新しい"独立自尊"という個人の道徳、国民の義務、参政権、国会開設の必要性、さらには時事問題まで、情熱を込めて語った。きょうアメリカ独立戦争かと思えば、あすはフランス革命。興に乗ればフランクリンの自伝からワットの発明苦心談も・・・。従来修身と言えば無味乾燥な"お説教"に退屈していた生徒たちは、目を輝かして聴き入った。

 当時の卒業生の手記によれば「これほど面白い授業はなく、熱のある病人まで先を争って出席するほど。殊に先生が品のよいモーニングで手先をチョッキのポケットにかけながら演壇に立つと、生徒たちは魅せられ、思わず拍手した」(創立五十周年記念誌)というから、人気のほどがうかがえる。

 鎌田校長の逸話には事欠かない。生徒が先生を"シェンシェイ"となまるごとに、いちいち"センセイ"と正した話。時の文部大臣森有礼が大分中を巡回訪問した際は、ろくに腰もかがめずおじぎしたり、平気で便所の戸まであけて見せ、学校中を驚かせた。またある日は、大分に来た外人宣教師とひとしきり歓談したあげく「今のはフランス語だ。英語しか学んでいない諸君は、わからずとも悲観することはない」と言ったとか。

 何よりも特筆される功績は、周囲に反対を押し切り、アメリカの青年医師ウェンライト(当時二十五歳)を英語の教師に招いたことだ。後に日本アジア会長となったこの青年医師を、鎌田は自分の倍の二百円という破格の給料で雇い入れたのだった。

 鎌田は和歌山県出身。十九歳で慶応義塾の教員に推された秀才。大分中のあと再び慶応に帰り、明治三十一年、四十一歳で第二代塾長に就任。二十四年もの在学期間は、歴代塾長のなかでも最長といわれた。大正十一年には加藤友三内閣の文部大臣となり、のちに枢密院顧問官までなった。

 晩年の鎌田は、ウェンライトとともに、よく東京の大中学友会に出席、立派に成長した教え子らと懐かしく交歓したという。大分中学創立五十周年式典(昭和十年)を前に、鎌田は久留島武彦(明治22中退)らと「式典で大演説会をやろう」と意気込んでいたが、惜しくも急病に襲われ死去。思い出の、そして晴れの壇上には立てなかった。

 

一世紀の青春「大中・上野丘高物語」

1979年3月26日

著書 中川 茂