大分県立大分上野丘高等学校同窓会ホームページ<公開版>

一世紀の青春「大中・上野丘高物語」より

(2013.01.09 掲載)

草創編

 

星雲の志燃え70

 

「生徒は本校第一次の入学者なれば、鋭意勉励その品行を修め、その学業を勤め、怠らず、もって後来入学者の為に良習を造成せんことを望む・・・」。まだ、材木の香も芳しい講堂に、太い声が響く。西村亮吉県知事の代理・佐々木千尋書記館は、一気に祝辞を読み終えるとグッと胸を張り、居並ぶ羽織、ハカマ姿の生徒たちを見渡した。まだあどけない顔も見える若者たちだが、まなざしは希望に輝いている。

 明治十八年六月五日、大分郡大分町字荷揚町に新築したばかりの大分中学校で、晴れの開校式が行われた。新入生は、前日の六月四日に入学を許可された計七十人。

十七歳の青年もいれば、十四歳の少年も、県下各地から星雲の志を抱いて集まった気鋭の若者ばかりだ。

 続いて壇に上がったのは、初代校長の村上田長。「温良恭謙軽捷敏達の人を淘汰する。これ本校学生を養成する目的なり。その任重く、その道遠し。宜しくその順序を逐ひ、もって漸次歩を進むべし」と建学の精神を高らかに宣言した。ほおを少し赤らめ、大きくうなずく生徒たち。

 大分県教育雑誌五号によれば、大分中学開校式は、生徒、教師に約八十人の来賓が出席。同日正午きっかりに始まった。式典ののち来賓たちは新しい学舎を見て回り、祝宴の席に案内された。一同は大いに酒を飲んで楽しみ、祝宴は午後五時まで続いた。翌六日は学内が一般公開され、およそ四、五百人の大分町民が見物に訪れたという。

 当時の大分中学が、現在の大分県庁正門前、遊歩公園東側の一帯にあり、南側の師範学校が隣接していた。校舎木造一部二階建ての一棟。このほか師範と共同使用の雨天体操場に、二階建ての寄宿舎が二等。四千九百円の建設費を投じて「広壮美麗にして堅牢を極めた」(県教育雑誌)はずが、現実は施設も貧弱そのもの。現代でいえば地方の小さな小学校並みというところか。ただ旧府内藩の家老屋敷跡を利用して建てられただけに、老松や桜の名木、築山が並ぶ定演だけは豪華けんらん。奇異にさえ感じられ、訪問者の目を引いていた。

 維新後の新しい国づくりを目指す明治政府は、人間養成、とくに学校教育に力を注ぎ、文明開化の担い手に育てようとした。『学制』(明治五年)『教育令』(同十二年)に続き、明治十四年には、高等普通教育を促す『中学校教則大網』を発令。県下では大分中学が創設された。すでに教師を養成する師範学校はできていたが、高等普通教育としては文字通り県下の嚆矢(こうし)。県民の期待も大きかった。

 明治十八年といえば、大分町の人口はまだ一万数千人。もちろん電気も鉄道もない。唯一の交通機関である人力車もしょせん"高値の花"。生徒たちは、玖珠や中津、臼杵、竹田などから、十里―二十里の山道を、はるばる踏み越えて集まってきたのだ。まだ地方では、大分の中学へ行くのを"遊学"と呼んだ時代。一期生の綾井忠彦(元芝浦製作所重役)は「友人や親類から惜別の辞で送られ"男子志を立て郷関を出ず。学もし成らずんば死すとも還らず"などと高吟しながら家を出た」と後に述べているほどだ。彼らの若い胸は、学問への気概と新しい生徒への期待、不安で、うち震えていたことだろう。

 荷揚町に開校した大分中学は、その後生徒増加に伴い、明治二十六年六月、大分郡豊府村字律院(現在の上野丘高のある場所)へ移転した。大分中、大分師範があった旧荷揚町一帯は、その後県立高等女学校、女子師範なども創設され、県下の"ふるさと"といわれた。現在は県庁に変ぼうしており、学校の跡さえ全く感じさせない。わずか、バス停横に、場違いのように建っている『大分県教育発祥之地』の記念碑が、遠い日の青春の息吹を伝えているようだ。

 

一世紀の青春「大中・上野丘高物語」

1979年3月26日

著者 中川茂