大分県立大分上野丘高等学校同窓会ホームページ<公開版>

一世紀の青春「大中・大分上野丘高校物語」より

(2012.10.10 掲載)

プロローグ

新しい時代への糧に

P2

草創編

 

 明治十八年六月、大分中学は県下でただ一つの高等普通教育の場として産声をあげた。場所は今の大分県庁の地。いち早く外人教師を採用し、新しい学問を積極的に教えた。独立自尊の福沢精神を鼓吹した弱冠二十八歳の校長。汽車も電気もない。大分で学ぶのを地方では、"遊学"と呼んだ時代。星雲の志を抱いて集まった若者たちは、病気、栄養失調と闘いながら、貧弱な施設の中でひたすら夢と希望をはぐくんだ。

 授業は容赦なくスパルタ式。落第者や退学者も多く、一期生百三人のうち卒業したのは、なんと三人だけ。ようやく十回生ぐらいから、入学者の半分が卒業するようになった。厳しい授業に耐え、皆よく勉強した。初期卒業生の手記によると「試験の時は、頭を水で冷やしたり、ハッカをまぶたにぬったりして、二晩も三晩も徹夜する」ありさま。それが"粘り"と根性の大中魂をつちかった行った。

 例えば十三回生(明治34年卒)。六十一人の卒業生中、代議士だけでも後藤文夫、一宮房治郎、小野義夫と三人。同期には薄命の詩人筑紫久嶺もいる。

 

 しだいに進学者が増加してきた明治二十六年、現在の上野丘に校舎を移し、繁栄の礎を築いた。

 

「一世紀の青春」

1979年3月26日発行 著者 中川 茂