大分県立大分上野丘高等学校同窓会ホームページ<公開版>

4月21日 「戦没学徒動員慰霊日」

(2013.04.17 掲載)

一世紀の青春 「大中・上野丘高物語」より

 

動員に散った19人

 

 

 上野丘高校の正門から入って右側。四季の花々に囲まれ戦没学徒動員慰霊像が建っている。両手にハンマーを握り締めた戦闘帽、ゲートル姿。あどけない顔で虚空を見つめるこの像は、学徒動員中、若い命を散らした十九人の犠牲者をしのんだものだ。

 昭和二十年三月。迫り来る戦局に大中二年生(六十一回生)も先輩の後に続いて第十二海軍航空廠に動員された。飛行機科第三工場は、そのうち市内春日校区似西の通学者二十七名が配属。技術将校の指導で部品づくりに励んでいたのである。

 悲運の四月二十一日。この日も朝からたて続けに空襲警報が

出され、衛藤隆一(日鉱佐賀関製錬所技術部分析課長)によれば「午前中はほとんど仕事にならなかった」という。昼ごろようやく本格的に作業開始。その時B29が一機飛来したが、もっぱら偵察のみとみてか、空襲警報も出なかった。

 その瞬間だ。「突然、全身をものすごい力で殴りつけられた感じで一瞬目の前が真っ暗になり、その暗やみに数条の火花が通り過ぎた」と阿川文正(旧姓 結城)(大正大教授)。安部正光(杉の井ホテル営業担当)は「物すごい音で床にたたきつけられ、背中にありとあらゆる物が降って来た」という。

 「爆弾にやられたぞ」。もうもうと舞う土煙がおさまると、第三工場は跡形もない。あるのは正視するに忍びない悲惨な地獄絵だ。安部は鮮明に覚えている。「叫び声、うめき声、悲鳴、建物の崩れ落ちる音。阿鼻叫喚の世界でした。友人もほとんど全滅。首が取れ手足がちぎれ、内蔵が飛び出して散乱している。名状し難い恐怖心でどうしようもなかった・・・」。

 衛藤はスチームが爆発したと思ったらしい。下半身が熱い。「立ち上がろうとしたら、左足のひざからしたがないんですよ。すぐに技術中尉が来て、私のベルトを引き抜き太ももに巻き付け木切れで締めあげました。"この木を離すな。離したら死ぬぞ"と大声で言いながら・・・・。後はもう覚えていません」。

 「大中生に投弾された」。伝令が航空廠各科に走る。すぐ近くの総務科にいた学生主任の富成栄六教諭と平松晃教諭が血相を変えて駆けつける。ついさっきまで元気だった教え子たちは、変わりはてた姿でころがっている。

「息のある人を救出しました。医務科の床は血の海になった」と富成。平松はバラバラの遺体を拾い、ゲートルや服の名をたよりに生徒を捜し回るのだった。

 当時、軍の方針で、事件の全容は全く秘密にされていた。負傷者は魚を運ぶようにトラックに積まれ、別府の海軍病院へ。もちろん家族の面会も許されなかった。従って正確な記録はわからないが、爆撃の死者は七十から八十人といわれている。

 そのうち動員学徒の犠牲者は大中生だけ。計十八だった。正確には即死十六人。河野武一教諭の息子の河野肇は、しりから太ももにかけて肉をすべて削られ、翌日息を引き取った。安部は爆撃直後の河野を知っている。「彼が小さな声で言うんです。"安部よー。この足をひっつけてくれよー"と。あの時の彼の哀願するような目は一生忘れられないでしょう」。

 最も悲惨だったのが藤原信郎だろう。腹部に無数の鉄片が食い込んだまま、以後二ヶ月余も苦しみ抜いた末に亡くなったのである。一方、左足を切断した衛藤は、幸い手術に経過も良く、秋口には義足をつけて復学した。

 その夜から翌日にかけ、大分川河原で犠牲者の火葬が行われた。ごうを掘って遺体を並べ、その上にマキと石油をかけて燃やすのである。富成はその火を分けて付けた。「お経を知らないので、南無阿弥陀仏と唱えるしかありませんでした」。遺骨は万寿寺に安置され、遺族の手に渡ったのは数日後のことだった。

 この爆撃事件の前、補給科に動員中の大塚和男が、日出高女の女学生四人と共に殉職した。五百キロ爆弾を市内深河内谷の疎開先へ運搬中、乗っていたトラックが初瀬井路へ転落。爆弾とトラックの下敷きとなり圧死したのである。学徒動員中の大中生の犠牲者は合計十九人となる。真剣に国を思う純粋な心で散った、十四、五歳の幼い死であった。

 毎年桜の散るころの命日、六十一回生と各遺族、富成教諭らは、ささやかな慰霊祭を続けている。四十三年の命日には、校内に『戦没学徒動員像』を建立した。

そして五十二年の命日が三十三回忌。慰霊祭も一つの節目を迎え、遺族の一人は心情をこう歌に詠んだ。

 

戦闘帽にゲートル姿の学徒吾子

十四歳のまま変わることなし

おお方の友は人の子の親なるに

吾子は変わらぬ少年にして